生きているからこそ

浮かんだこと

白い紙だけに留まらず、チラシの裏、使い古したノートの余白と、至る紙という紙に彼らの鉛筆が滑る。何を描くのかはその日、その時、その瞬間の気分次第だ。綿密な計算などどこにもない構図で、自由奔放に線を書き殴っていく。

その手元を見つめながら、私はぼんやりと頭の中の引き出しから名前のついた情動をつまみ出す。そうだった、これは描くことでしか得られない、あの沸き立つような衝動だった。

最近の私は、指示プロンプトを調整し、生成される結果を確認する……という作業の繰り返しの中で、どうにも思考が停止してしまうような感覚を抱いている。
そんな調子なので、やはり私にはAIの描く画像に魅力を覚えない日が増えてきた。

表現の手法の一つにすぎないと言えばそれまでだが、生成画像の内部に位置する均等なノイズは、私の網膜に静かな負担をかける。もともと、性質が合わないのではないか。

筆の痕跡のような何かを画像内部に発見し糠喜びをした事は一度や二度ではない。

根本的に探す事が間違っているのだろうが、これが癖のようなものであるからして今更やめる理由も特に見つからない。

大雑把にくくると、手癖とかその書き手の息遣いが感じられないと、途端に興ざめしてしまうのだ。

だからこそ、いま目の前で、素直にのびのびと鉛筆を動かしている子供の手元を眺めている時間が、何よりも愛おしい。そこには機械の計算を挟まない、純粋な生の呼吸がある。

画面の向こうで記号化された画像が氾濫するこんな時代だからこそ、子供たちが鉛筆の芯を丸ませていくような、なんてことのない日常こそが奇跡なのだと、改めて思い知らされたのだった。

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